単行本レビュー
『マイ・ブロークン・マリコ』平庫ワカ セカイ系の真逆にある残酷な輝き
小林聖
友人の遺骨と、最初で最後の旅に出る
2020年は年明け早々大騒ぎである。コントラバスとか世界情勢の話ではない。平庫ワカ氏のデビュー作『マイ・ブロークン・マリコ』の話だ。
KADOKAWA (2020/1/8)
売り上げランキング: 116900
『マイ・ブロークン・マリコ』の登場は衝撃だった。
連載開始早々バズるどころかTwitterのトレンド入り。その後も最新話の更新のたびにトレンド入りを果たすなど、単行本刊行前から大きな話題を呼んでいた。
「『COMIC BRIDGE online』という創刊間もない新規媒体」の「新人漫画家の初連載作」としては、まさに規格外といっていい。
1月8日に単行本発売を迎えたが、周囲の書店員などに聞いてもやはりというべきか、即日完売だったという。
発売翌日には重版決定が発表され、この記事が掲載されるころには重版分が店頭に到着するだろう。とはいえ、多くの書店ではまだまだ品薄が続きそうな気配だ。
今年はこれから、何度となく『マイ・ブロークン・マリコ』と「平庫ワカ」の名前を目にすることになるだろう。
野蛮な疾走感をつくる精緻な演出
単行本デビュー作にしてすでに神話じみた話に彩られることになった『マイ・ブロークン・マリコ』は、150ページほどの中編作品である。
物語はOL・シイノが、テレビで流れるニュースで“ダチ”であるマリコの突然の死を知る場面から始まる。
ニュースが伝えた彼女の死因は、自宅マンション4階ベランダからの転落。彼女がそのとき大量の睡眠薬を飲んでいたことも伝えられる。
ミステリー仕立ての物語にも思える始まり方だが、本作はマリコの死の謎をめぐる物語ではない。シイノが取った行動は、マリコの遺骨の奪還。そして、その遺骨と最初で最後の旅に出ることだ。
その旅のなかで描かれるのは、徹底的にシイノとマリコのふたりの物語だ。
シイノの知らなかった過去が明かされるわけでもなければ、死の当日何があったかが見つかるわけでもない。ひたすらシイノが知るマリコの過去——実の親に殴られ、虐げられていた痣だらけのマリコ、自分の名前の一部が入った「まりがおか岬」に行きたいと無邪気に笑うマリコ、「シイちゃんに彼氏とかできたら 私死ぬから」と告げるめんどくさい女・マリコ——が語られるだけだ。
感情を揺さぶられる状態を指して「エモい」というフレーズが使われるようになったが、それでいうなら本作は「エモ」の塊だ。
悲しみや悔しさ、愛おしさ、めんどくささといったシイノの混乱した、整理されていない感情が、そのままぶつけられるような感覚に陥る。その整理されていなさが、いかにマリコがシイノにとって大事な存在だったかを何よりも語っている。
シイノは暴走するトロッコのように野蛮に走り回り、泣いたり怒ったり呆けたり、さまざまな感情が凄まじい疾走感を持って通り抜けていく。
勘違いしてはいけないのは「整理されていない」「野蛮な暴走感」は読後感であって、作品そのものは精緻な演出を行っているということだ。
タバコの煙が流れる静寂と内省を表現する場面から、ページをめくった瞬間一気に駆け足で歩き出すシーンに切り替わったり、遺骨を強奪する場面で震えながら包丁をかまえる姿を滑稽に描いたかと思えば、続くコマで鬼気迫る叫びの表情を描いてみたり、次々と去来する感情や衝動を、見事な緩急の表現で見せている。
それを可能にする絵の魅力、説得力も凄まじい。
第1話冒頭、最初の1コマはラーメンを頬張りながら突然の訃報に戸惑うシイノの顔が描かれるが、このどこか滑稽さが漂う驚きの表情だけでも、グッとつかまれてしまう。
「テメエに!! 弔われたって!! 白々しくてヘドが出ンだよぉ!!!」「差し違えたってマリコの遺骨はあたしが連れて行く」など、セリフやモノローグの言葉選びも舌を巻くものばかりだ。
荒々しく粗野な印象は、こうした精緻な演出によってできあがっている。
世界の問題と切り離された「私たち」の物語
では、そうした表現手法によって描かれているものとは何なのだろうか?
かつて「セカイ系」という概念が一世を風靡した。
その定義は人によっても差異があるが、「この私(と誰か)の問題解決が、世界全体の構造や問題とダイレクトにシンクロする物語」といったところが現在もっともスタンダードな解釈だろう。
それでいうと、『マイ・ブロークン・マリコ』は「セカイ系」の真逆のような物語だ。
物語冒頭、シイノは「今度こそあたしが助ける 待ってろ マリコ」とつぶやき、遺骨の奪還を決意する。だが、この作品がマリコを救い直す物語かといったらそうはいえない。むしろ、いかにマリコが救いがたい存在だったかが克明に描かれていく。
虐待のなかで育ったマリコが、世界こそが間違っていると言うことすらできず壊れ、さらなる虐待や搾取に晒され、やがて突然の死を迎えたという事実がシイノの回想を通じて描かれる。
この悲劇は、単に虐待を繰り返した父親が邪悪だったというだけではおさまらない。
マリコを壊したはずの父は、一方で殊勝な様子で線香をあげ、遺骨を奪おうとするシイノに烈火のごとく怒り狂う、当たり前の父親のような一面もある。
かたや父の虐待を止めることができなかった母は、今さらになって「あんたが全部悪いんじゃないのぉ!!」と父を責める。素朴な優しさが描かれる一方で、この母は自分もまた加害者であるという自覚を持てずにいる、そういう邪悪さを持っている。
マリコが壊れる引き金を引いたのは両親をはじめとした邪悪な大人たちだが、同時にその大人たちの邪悪さが生まれついてのものともいいがたい。
シイノの言葉を借りるなら、彼らは弱い人間なのだが、弱さというのは程度の差こそあれ誰もが持っている。それを補うものを手に入れられず、何もかもがうまくいかない状況に陥ったことで、その弱さが邪悪さとして発露するのだ。
タフに生き抜いているシイノも、奪還の際に履いていった靴を失うと代わりの靴がなく、大昔に履いていたかび臭いドクターマーチンを引っ張り出すしかないという環境にある。
貧困と閉塞感に満ちた生活のなかで、数少ない心許せる友人がマリコなのだ。
いってみれば、この物語の悲劇の核心は社会問題にある。友人の心配くらいでは救えない残酷な状況こそがマリコを壊したものなのだ。
『マイ・ブロークン・マリコ』は、そういうバックボーンをそこかしこに散りばめて描いている。
「この私と彼女」の問題が、なかばダイレクトに世界や社会とつながっているのだが、それでいてシイノとマリコが求める救いは社会の変革ではない。そこにあるのは「海に行こう」という約束であり、「あんたといっしょにいたかった」というシンプルな思いだけだ。
そこには自分の外側にある世界に対する絶望、一種の断絶がある。残酷なことに、その絶望がシイノとマリコというふたりの関係をよりまばゆく見せている。
世界は続く、残酷なまま。だけど、確かに輝かしいものはある。そう信じることだけが、手の施しようのない世界を生きる人々の灯火なのだ。
KADOKAWA (2020/1/8)
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